CMB異方性スペクトルが解き明かす宇宙成分比率の物理:ピーク構造の意義と観測的制約
宇宙の大部分を構成するダークマター、ダークエネルギー、そして私たちが知る普通物質(バリオン)。これらの比率を正確に決定することは、宇宙の進化や構造形成の理解において極めて重要です。そして、この比率決定に最も強力な制約を与える観測の一つが、宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の温度異方性観測です。特に、CMBの温度ゆらぎを角スケール(宇宙論的スケール)ごとに解析したパワースペクトルに現れる特徴的なピーク構造は、宇宙の初期状態と成分比率に関する豊かな情報を含んでいます。
CMB異方性パワースペクトルとは
宇宙誕生から約38万年後、宇宙が冷却されて中性原子が形成されると、光子と物質が結合し、光子が自由に飛び回れるようになりました。この時の光がCMBとして現在観測されています。CMBは極めて一様に見えますが、微小な温度ゆらぎ(異方性)が存在します。この温度異方性は、初期宇宙の密度ゆらぎを反映しており、そのパターンを解析することで宇宙論パラメータに制約を与えることができます。
CMB温度異方性を解析する標準的な方法は、全天マップ上の温度ゆらぎを球面調和関数によって分解し、それぞれの角スケールに対応するゆらぎの振幅の二乗平均(パワースペクトル)を求めることです。パワースペクトルは、多重極モーメント $l$ を横軸にとり、対応するパワー $C_l$ を縦軸にとるグラフとして表現されます(図1)。多重極モーメント $l$ は、おおよそ $l \sim 180/\theta$ の関係で角スケール $\theta$(度)に対応しており、小さな $l$ は大きな角スケール、大きな $l$ は小さな角スケールを表します。
初期宇宙では、物質(主にバリオンとダークマター)と光子は密に結合したプラズマ状態にありました。このプラズマ中の密度ゆらぎは、光子の圧力によって膨張し、重力(主にダークマターの重力ポテンシャル)によって収縮するという音響振動を起こしていました。宇宙が中性化して光子が解放される(宇宙の晴れ上がり)まで続いたこの音響振動の「スナップショット」が、CMB異方性として観測されるのです。パワースペクトル上のピーク構造は、この音響振動が特定の波長スケールで定常波の腹となった瞬間に対応しています。
(図1:CMB異方性パワースペクトルの概念図。横軸に多重極モーメント $l$、縦軸にパワー $C_l$ をとり、ピークがいくつか描かれた図を挿入)
ピーク構造が語る宇宙成分比率
CMB異方性パワースペクトルにおけるピークの位置と相対的な高さは、宇宙の様々な成分比率に敏感です。
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第1ピーク: パワースペクトルの最も顕著な特徴は、 $l \sim 200$ 付近に現れる第1ピークです。これは、宇宙の晴れ上がりまでに、初期の過密領域から始まった音響波が、音波が伝播できる最大のスケール(音響ホライズン)に到達し、そこで振動の最初の極大(最大圧縮または最大膨張)を迎えたことに対応します。 第1ピークの位置は、主に音響ホライズンの物理スケールと宇宙の曲率によって決定されます。もし宇宙が平坦であれば、物理スケールは観測される角スケールと単純な比例関係にあります。プランク衛星による観測は、第1ピークの位置が平坦宇宙(宇宙の曲率がゼロ)を強く支持することを示しています。 第1ピークの高さは、特にバリオンの密度に敏感です。バリオンが多いほど、プラズマ中の音波の速度が遅くなり、重力による収縮が強まります。これにより、奇数番目のピーク(特に第1ピーク)の振幅が増大します。
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第2ピーク以降: 第1ピークに続いて、 $l \sim 500, 800, 1100$ 付近などに第2、第3、第4...のピークが観測されます(図2)。これらは、音響振動が2回、3回、4回...と振動した結果生じる定常波の極値に対応します。 偶数番目のピーク(第2、第4など)の高さは、主にダークマターの密度に対するバリオンの密度の比に敏感です。ダークマターは音響振動には参加せず、重力ポテンシャル井戸を形成します。バリオンが多いと、音響振動の最大圧縮期に光子がバリオンに引きずられて重力井戸から這い上がりにくくなり、偶数番目のピークの振幅が相対的に抑制されます。一方、ダークマターが多いと、重力井戸が深くなり、最大圧縮期に光子がより深く引き込まれるため、偶数番目のピークの振幅が増大します。 第2ピークが第1ピークに比べて低いことは、宇宙にバリオンだけでなく、音響振動に寄与しないダークマターが豊富に存在することの強い証拠です。
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高次ピークの減衰: $l \gtrsim 1000$ より高次のピークは、顕著に減衰していく様子が観測されます。これは、光子とバリオンのプラズマが完全な流体ではなく、有限の平均自由行程を持つことによる粘性的な効果(Silk減衰)によるものです。Silk減衰の度合いは、バリオンの密度や光子の密度(これは宇宙の温度と関連し、ニュートリノなどの相対論的粒子の密度にも影響される)に依存します。高次ピークの減衰を精密に測定することで、バリオン密度や相対論的粒子の密度に制約を与えることができます。
(図2:プランク衛星によるCMBパワースペクトル測定結果に、理論モデルがフィットしている様子を示す図を挿入。特にピーク構造が明瞭に描かれているもの。)
最新観測データからの制約
プランク衛星のような高精度なCMB観測ミッションは、全天の温度異方性をかつてない精度で測定し、 $l$ が2から2500を超える範囲までのパワースペクトルを詳細に決定しました(図2)。このデータは、宇宙論パラメータ、特に宇宙成分比率に対して非常に強力な制約を与えています。
プランク衛星のデータから得られた、標準的なΛCDMモデルにおける主要な宇宙成分比率の推定値は以下の通りです(具体的な数値は最新の結果を参照する必要がありますが、ここでは一般的な値を示します):
- バリオン密度 (Ω_b h^2): 約0.022程度。第1ピークの高さと高次ピークの減衰に強く制約されます。ビッグバン元素合成によって独立に推定されるバリオン密度ともよく一致しており、標準宇宙モデルの整合性を示しています。
- コールドダークマター密度 (Ω_c h^2): 約0.12程度。第2ピーク以降の相対的な高さと、第1ピークの位置に影響を与える音響ホライズンの物理スケールに強く制約されます。
- ダークエネルギー密度 (Ω_Λ): 約0.68程度。これは、宇宙の平坦性(Ω_k ≈ 0)を仮定した場合に、バリオンとダークマター以外の残りのエネルギー密度として決定されます(Ω_m + Ω_Λ = 1 if Ω_k = 0, where Ω_m = Ω_b + Ω_c)。第1ピークの位置が平坦宇宙を強く支持するため、ダークエネルギーの存在とその比率はCMBデータから間接的かつ強力に支持されます。
これらの値は、ハッブル定数 $H_0$ の現在の値 $h = H_0 / (100 \text{ km/s/Mpc})$ を用いて表現される体積密度(Ω_i)とは異なり、物理密度(Ω_i h^2)として表現されることが多いです。これは、CMBデータが主に物理的なスケールや密度の積(例えば、音響ホライズンの物理スケールや物理密度)に敏感であるためです。Ω_i 自体を決定するためには、h の値が別途必要になりますが、CMBデータ単独でも、パラメータ間の相関を考慮しながらΩ_i h^2やその他のパラメータ(例: 音響ホライズンに対するハッブルスケールの比など)に制約を与えます。
(表1:プランク衛星データから得られた主要な宇宙論パラメータ(Ω_b h^2, Ω_c h^2, Ω_Λ など)の最新推定値と誤差バーを示す表を挿入)
他の観測との連携と今後の展望
CMB異方性パワースペクトルから得られる成分比率の情報は、他の観測手法(例:バリオン音響振動(BAO)、 Ia型超新星、銀河団数、弱重力レンズなど)から得られる情報と組み合わせて解析されることで、さらに強固な宇宙論パラメータ制約が得られます。特に、大規模構造に関する観測は、CMBが捉える初期の密度ゆらぎがどのように成長したかを見ることで、ダークマターやダークエネルギーの性質、成分比率の時間進化に対する独立した制約を与えます。
CMB観測データの解析は、宇宙成分比率の決定において既に驚異的な精度を達成しています。しかし、まだ解決されていない課題や、さらなる精度向上による新物理の探索が続いています。例えば、ハッブル定数の測定におけるCMBと近傍宇宙の観測データ間の「テンション」は、ΛCDMモデルや、CMBが制約する初期宇宙の成分比率解釈に何らかの見落としがある可能性を示唆しています。
将来のCMB観測ミッション(例: Simons Observatory, CMB-S4, LiteBIRDなど)は、さらに低ノイズ・高分解能でのパワースペクトル測定、特に宇宙論的ニュートリノ質量や暗黒物質の特性に敏感な小スケールでの測定精度向上を目指しています。これらの観測は、CMB偏光パターンの高精度測定と組み合わせることで、宇宙の成分比率決定を究極の精度に近づけ、標準的な宇宙モデルを超える可能性を探る重要な手がかりとなるでしょう。
まとめ
宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の温度異方性パワースペクトルに見られる特徴的なピーク構造は、初期宇宙の物理、特にバリオン、ダークマター、ダークエネルギーの相対的な比率に関する極めて重要な情報を含んでいます。第1ピークは主にバリオン密度と宇宙の曲率を、第2ピーク以降の相対的な高さはバリオンとダークマターの密度の比を、高次ピークの減衰はバリオン密度や相対論的粒子の密度を反映しています。プランク衛星などの最新観測データは、これらのピーク構造を精密に測定することで、ΛCDMモデルにおける宇宙成分比率に強い制約を与え、現在の宇宙モデルの確固たる基盤を築いています。今後のさらなる高精度観測は、宇宙成分比率の決定精度をさらに向上させ、宇宙の未解明な謎の解明に貢献すると期待されています。