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バリオン密度の精密測定:ビッグバン元素合成とCMBからの独立した制約

Tags: ビッグバン元素合成, 宇宙マイクロ波背景放射, バリオン密度, 普通物質, 宇宙論

はじめに:宇宙の普通物質比率決定におけるバリオン密度の役割

宇宙の全エネルギー密度のうち、我々が知っている物質(原子や陽子、中性子といったバリオンから構成される物質)が占める割合は、驚くほど小さいことが最新の観測によって明らかになっています。この「普通物質」の宇宙全体における比率(Ωb)を正確に決定することは、宇宙の組成を理解する上で極めて重要です。

普通物質の比率を決定する上で中心的な役割を果たすのが、「バリオン密度」(宇宙の体積あたりのバリオンの数密度や質量密度)の測定です。このバリオン密度は、初期宇宙の物理状態を反映しており、主に二つの独立した観測手法、すなわちビッグバン元素合成(Big Bang Nucleosynthesis, BBN)と宇宙マイクロ波背景放射(Cosmic Microwave Background, CMB)の観測から精密に制約されます。

本記事では、これら二つの主要な手法がどのようにバリオン密度を決定し、それが宇宙の普通物質比率にどう結びつくのか、そして最新の観測データが示す両手法の整合性とその意義について掘り下げて解説します。

ビッグバン元素合成(BBN)によるバリオン密度の制約

ビッグバン元素合成は、宇宙誕生後数分以内の極めて高温・高密度の環境下で、陽子と中性子からヘリウムやリチウムといった軽元素が合成された過程です。この過程で生成される軽元素の相対的な存在量は、その時の宇宙のバリオン密度に強く依存します。具体的には、バリオン密度が高いほど、より多くの陽子や中性子が反応に関わるため、ヘリウム-4(4He)の生成量が増加し、一方、重水素(Deuterium, D)はバリオン密度が高いとより効率的にヘリウムに変換されるため、残存量が減少します。リチウム-7(7Li)の生成量はより複雑なバリオン密度依存性を示します。

したがって、現在の宇宙に存在する軽元素の量を観測的に測定し、BBNの理論計算と比較することで、初期宇宙のバリオン密度を逆算的に推定することができます。特に、原始的な環境にある天体(金属量が非常に少ない星や、遠方のクエーサー吸収線系など)における重水素の存在量測定は、BBNによるバリオン密度の制約において最も強力な手法の一つです。理論計算と観測結果(特にD/H比)を比較することで、宇宙のバリオン密度パラメータΩbh2(ここでhはハッブル定数H0を100 km/s/Mpcで割った無次元量)に関するタイトな制約が得られます。

宇宙マイクロ波背景放射(CMB)によるバリオン密度の制約

宇宙マイクロ波背景放射(CMB)は、宇宙誕生約38万年後の「宇宙の晴れ上がり」と呼ばれる時代に放出された光の残光です。この時代の宇宙は、光子、電子、陽子、中性子などがプラズマ状態にあり、バリオンと光子は強く相互作用していました。このプラズマ中で発生した密度揺らぎは、バリオンと光子の音響振動を引き起こしました。

CMBの温度にわずかなムラ(異方性)が存在するのは、この音響振動の痕跡です。CMBの温度異方性パワースペクトルには、この音響振動に起因する一連のピーク構造が見られます(図はここでは割愛しますが、パワースペクトルには特徴的なピークが観測されます)。これらのピークの位置や相対的な高さは、晴れ上がり当時の宇宙の物理パラメータ、特にバリオン密度に敏感に依存します。

具体的には、パワースペクトルの第1ピークに対する第2ピークの高さの比率などが、バリオン密度Ωbh2と強く関連しています。バリオン密度が高いほど、音響振動においてバリオンの慣性効果が大きくなり、奇数番目のピーク(圧縮)が偶数番目のピーク(希薄)よりも強調される傾向があります。

プランク衛星などによるCMBの高精度観測データを用いることで、このパワースペクトルを非常に詳細に測定することが可能となり、その結果としてBBNとは独立した手法でバリオン密度Ωbh2を非常に高い精度で決定できるようになりました。

BBNとCMBからのバリオン密度の比較と整合性

BBNとCMBという、物理過程も観測対象も全く異なる二つの手法から独立して得られたバリオン密度Ωbh2の値は、驚くべき精度で一致しています。最新の観測データを用いた解析によれば、BBNから推定されるΩbh2の値と、プランク衛星のCMBデータから推定されるΩbh2の値は、それぞれの測定誤差の範囲内で非常によく整合しています。

例えば、プランク衛星の最新データから得られるΩbh2の値は、標準的なΛCDMモデルの枠組みで非常に精密に決定されており、これと独立に、原始的なD/H比の観測から得られるΩbh2の値も、これまでのデータ蓄積により精度が向上し、CMBからの値と統計的に有意な不一致は見られません。

この両手法間でのバリオン密度の整合性は、標準宇宙モデル(ΛCDMモデル)の大きな成功の一つであり、宇宙がビッグバンによって始まり、その後既知の物理法則に従って進化してきたという我々の基本的な理解を強力に支持する証拠となっています。これは、宇宙の初期数分間と、その約38万年後の状態を記述する物理が、互いに矛盾しないことを示しています。

未解決の課題:リチウム問題

バリオン密度の整合性は素晴らしい成果ですが、完全に課題がないわけではありません。BBNが予測するリチウム-7(7Li)の存在量は、原始的な環境にある星(金属量欠乏星)の観測から推定される7Liの存在量と比べて、系統的に高い値を示しており、「宇宙のリチウム問題」として知られています。他の軽元素(D, 4He)では高い整合性が得られているのに対し、7Liのみが不一致を示す理由は、まだ完全に解明されていません。

この問題は、BBNの理論計算、恒星大気中のリチウム観測、あるいはバリオン密度以外の未知の物理(例えば、ダークマターとの相互作用、非標準的な初期宇宙物理など)に起因する可能性が議論されています。このリチウム問題の解決は、バリオン密度の決定精度向上や、標準宇宙モデルを超える新物理の探求において重要な鍵となります。

まとめ:普通物質比率決定の堅固な基礎

ビッグバン元素合成と宇宙マイクロ波背景放射の観測は、それぞれ独立した物理過程に基づきながらも、宇宙のバリオン密度Ωbh2について非常に整合性の高い制約を提供しています。この整合性は、標準宇宙モデルの基本的な枠組みの妥当性を強く支持するものです。

これらの精密なバリオン密度測定は、宇宙全体のエネルギー密度のうち普通物質が占める割合(Ωb)を決定するための強固な基礎となります。Ωbh2の値と、他の観測(例:Ia型超新星やバリオン音響振動)から独立に決定されるハッブル定数hの値を用いることで、普通物質の宇宙全体のエネルギー密度に対する比率Ωbを計算することができます。最新の観測データは、このΩbの値が全エネルギー密度の約5%程度であることを示しており、残りの大部分がダークマターとダークエネルギーによって占められているという「宇宙の比率」を決定づける重要な要素となっています。

今後の観測計画では、軽元素存在量の測定精度向上、CMB偏光の高精度観測、大規模構造サーベイなどにより、バリオン密度の制約はさらに厳しくなることが期待されています。これにより、BBNとCMB間の整合性がさらに検証され、リチウム問題のような未解決の課題解決や、標準宇宙モデルの限界を探る手がかりが得られる可能性があります。

これらの観測的進展は、我々が構成する「普通物質」が宇宙の中でどのような位置づけにあるのかを、より深く理解するための重要なステップとなるでしょう。