バリオン音響振動(BAO)が探る宇宙成分比率:大規模構造データからの制約
はじめに
宇宙の主要な構成要素であるダークマター、ダークエネルギー、そして普通物質の比率を正確に決定することは、宇宙論研究における最も重要な課題の一つです。これらの比率を知ることは、宇宙の進化史、将来の運命、そして素粒子物理学における未解決の謎(例えばダークマターの正体やダークエネルギーの性質)を理解する上で不可欠です。
これまでの研究において、宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の観測は初期宇宙におけるこれらの成分比率に非常に強い制約を与えてきました。しかし、宇宙進化の過程、特に比較的最近の宇宙における成分比率やダークエネルギーの振る舞いをより深く理解するためには、別の独立した観測手法による検証と補完が不可欠です。そこで重要となるのが、宇宙の大規模構造観測から得られる「バリオン音響振動(Baryon Acoustic Oscillations; BAO)」のデータです。
本記事では、バリオン音響振動がどのような物理現象に基づいているのか、どのようにして観測され、そしてそれが宇宙の成分比率、特にダークエネルギーや空間の曲率にどのような制約を与えるのかについて、最新の観測データに基づいて解説します。
バリオン音響振動(BAO)の物理的起源
バリオン音響振動は、初期宇宙に存在したバリオン(普通の物質を構成する粒子)と光子のプラズマにおける密度ゆらぎが音波として伝播した痕跡です。ビッグバン後のごく初期、宇宙は高温高密度のプラズマ状態にあり、バリオンは光子と強く相互作用していました。このプラズマ中の密度ゆらぎは、重力によって収縮しようとする力と、光子圧による膨張しようとする力のバランスによって音波として伝播しました。
宇宙が膨張し温度が低下するにつれて、約38万年後に光子とバリオンが分離する「宇宙の晴れ上がり」が起こりました。この時点で、音波はそれ以上伝播できなくなり、その時点までに音波が到達した最大距離(これを音響ホライズンと呼びます)に、初期の密度ゆらぎの中心からバリオンが集積するシェル構造としてその痕跡を残しました。ダークマターは光子とほとんど相互作用しないため、初期の密度ゆらぎの中心にとどまり続けました。
結果として、宇宙の晴れ上がりの時点における音響ホライズンのスケールに特徴的なバリオン密度の過剰が生じました。この特徴的なスケールは、その後の宇宙膨張によって引き伸ばされながらも、現在の宇宙における銀河などの大規模構造の空間分布に「標準のものさし」として刻み込まれています。これがバリオン音響振動の物理的な起源です。
大規模構造観測によるBAOスケールの測定
現在の宇宙におけるBAOスケールを測定するためには、多数の銀河やクエーサーなどの大規模構造の空間的な相関を解析します。具体的には、宇宙の様々な領域における天体密度の揺らぎを調べ、ある特定の距離スケールで密度相関が強くなるピークを探します。このピークが存在するスケールが、現在の宇宙におけるBAOスケールです。
この観測には、広範囲にわたる宇宙の3次元的な天体分布マップを作成する大規模な銀河サーベイが必要となります。これまでに実施された、あるいは進行中の主要なサーベイプロジェクトには、Sloan Digital Sky Survey (SDSS) の一部であるBOSS (Baryon Oscillation Spectroscopic Survey) や eBOSS (extended BOSS)、Dark Energy Survey (DES)、Subaru Hyper Suprime-Cam (HSC) Survey、そして将来計画であるEuclidやNancy Grace Roman Space Telescope (旧WFIRST) などがあります。
これらの観測から得られる銀河の3次元位置情報を用いて、例えば2点相関関数やパワースペクトルといった統計量Ωを計算します。これらの統計量には、宇宙の晴れ上がりの音響ホライズンに由来する特徴的なスケールが現れます。この観測されたスケールと、CMB観測などから高精度に決定されている宇宙の晴れ上がり時の音響ホライズンの物理的スケールを比較することで、観測が行われた特定の時代の宇宙の膨張率(ハッブルパラメータ)と、その時代の宇宙までの距離(角径距離)の組み合わせを決定することができます。
BAOデータが与える宇宙成分比率への制約
BAOスケールは、ある特定の赤方偏移(宇宙年齢)において、その時代のハッブルパラメータ $H(z)$ と角径距離 $D_A(z)$ に依存します。具体的には、$D_A(z)/r_s$ ($r_s$は宇宙の晴れ上がり時の音響ホライズン物理スケール)や $H(z) r_s$ といった量として観測されます。ここで、$r_s$ はCMBデータからΛCDMモデルのパラメータ(特にバリオン密度と全物質密度)を用いて高精度に決定されます。
異なる赤方偏移における $D_A(z)$ と $H(z)$ を測定することは、宇宙の膨張史を詳細に追跡することを意味します。宇宙の膨張率は、その時点における宇宙の構成成分(普通物質、ダークマター、ダークエネルギー、曲率など)とその比率によって決定されます。
$H(z)^2 = H_0^2 [\Omega_m (1+z)^3 + \Omega_r (1+z)^4 + \Omega_k (1+z)^2 + \Omega_\Lambda]$
ここで、$H_0$は現在のハッブル定数、$\Omega_m, \Omega_r, \Omega_k, \Omega_\Lambda$はそれぞれ現在の物質(バリオン+ダークマター)、放射、空間の曲率、ダークエネルギーの密度パラメータです。BAO観測によって様々な赤方偏移での $H(z)$ と $D_A(z)$ が測定されると、これらの密度パラメータに対して強い制約を与えることができます。
特に、BAO観測はダークエネルギーの性質や密度パラメータ $\Omega_\Lambda$ の決定に非常に強力な手段となります。スーパーノバ観測が距離指標として機能するのと同様に、BAOスケールを標準のものさしとして使うことで、異なる赤方偏移までの距離(したがって宇宙の膨張史)を測定できるためです。また、CMB単独では決定が難しい空間の曲率パラメータ $\Omega_k$ に対しても、BAOデータと組み合わせることでより厳しい制約が得られます。
最新のBAOサーベイデータ(例えばeBOSSファイナル結果など)は、ΛCDMモデルの枠組みで、$\Omega_m h^2$, $\Omega_b h^2$ といった物質密度パラメータ、そしてダークエネルギーの密度パラメータ $\Omega_\Lambda$ に精密な制約を与えています。これらの結果は、多くの場合CMBデータと組み合わせることで最も強力な制約となり、標準的なΛCDMモデルが高い精度で宇宙を記述していることを支持しています。
最新データが示すことと課題
最近のBAOサーベイ、特にeBOSSのような高赤方偏移宇宙を対象とした観測は、宇宙膨張史のより広い範囲にわたるBAOスケールを測定することを可能にしました。これにより、ダークエネルギーの状態方程式パラメータ $w$($P = w \rho c^2$, $w=-1$が宇宙定数に対応)に対して、CMBや他の観測データと組み合わせることで、非常に厳しい制約が得られています。現在のところ、最新データは $w=-1$に近い値を示しており、ダークエネルギーが宇宙定数であるという描像を支持しています。
しかし、BAO観測にも課題は存在します。大規模構造の非線形進化はBAOピークの形状を歪める可能性があり、精密な宇宙論パラメータ決定には非線形効果の正確なモデリングが必要です。また、天体の固有運動によるレッドシフト空間歪みも考慮する必要があります。これらの系統誤差を精密に制御することが、今後の精度向上に不可欠です。
さらに、CMBデータから示唆される宇宙の初期状態と、BAOを含む低赤方偏移の宇宙観測から示唆される現在の宇宙定数 $H_0$ の値に不一致が見られる「ハッブル定数テンション」問題は、依然として未解決の課題です。BAOデータは $D_A(z)$ と $H(z)$ の比 $D_A(z)/r_s$ および $H(z)r_s$ を測定するため、CMBで決定される $r_s$ の値に依存します。このため、BAOデータ単独ではハッブル定数を直接的に高精度で決定することは難しいですが、CMBやスーパーノバデータと組み合わせることで、テンション問題の理解に重要な示唆を与えています。例えば、CMB+BAOデータの組み合わせは、ΛCDMモデル内でのハッブル定数 $H_0$ に厳しい制約を与え、スーパーノバから示唆される値との不一致をより顕著にしています。
今後の展望
EuclidやRoman Space Telescopeといった将来の大規模構造サーベイ計画は、これまでの観測をはるかに凌駕する数の銀河やクエーサーを観測し、より広い宇宙領域にわたって高精度なBAO測定を行うことを目指しています。これにより、ダークエネルギーの状態方程式パラメータ $w$ の時間進化や、空間の曲率に対して、これまで以上に厳しい制約が得られると期待されています。
これらの将来計画による高精度なBAOデータは、CMB-S4や大型地上望遠鏡(例:LSST/Vera C. Rubin Observatory)による他の観測データと組み合わされることで、宇宙成分比率の決定精度を飛躍的に向上させ、ΛCDMモデルの検証や、もしかすると標準モデルを超える新しい物理の兆候を捉える可能性を秘めています。
まとめ
バリオン音響振動は、初期宇宙の物理が現代宇宙に刻んだ「標準のものさし」です。大規模構造観測によってこのスケールを精密に測定することで、私たちは宇宙の膨張史を詳細に追跡し、ダークマター、ダークエネルギー、普通物質といった宇宙の主要な成分の比率や、空間の曲率に強力な制約を与えることができます。
最新のBAOサーベイデータは、標準的な宇宙論モデルであるΛCDMモデルを強く支持していますが、ハッブル定数テンションのような未解決の課題も浮き彫りにしています。今後の大規模観測計画によるさらなる高精度なBAO測定は、これらの謎を解き明かし、宇宙の究極的な姿を理解する上で重要な鍵となるでしょう。